福岡に数日帰省して、先日こちらに戻ってきた。帰りの新幹線に乗り込む前、博多駅の売店で、大宰府名物の梅ヶ枝餅を買っておいた。小さい頃、親によく連れて行ってもらった太宰府天満宮。そこに行けば必ず食べたのが、この梅ヶ枝餅だ。
箱に入っていた由来を読むと、藤原氏の覇権確立のため、901年讒訴(ざんそ)により大宰帥に左遷され、失意のまま903年に任地大宰府で没した右大臣菅原道真公が、「府の南館」とよばれた大宰府政庁の官舎で不遇な生活を送っていた折、老女(浄明尼)が公の境遇に同情し、時折餅を持参して公の無聊を慰めた。公が薨去(こうきょ)された際、この餅に梅の枝を添えて送ったという故事にならい、梅ヶ枝餅と称されるようになったという。
食べながらヨメが言った。
「菅原道真って、何で大宰府に流されたんだっけ?」
「政争に負けたから」
「で、ずっと大宰府で『都が恋しい』思いながら亡くなったんやっけ」
「そう」
「そういうメソメソしてたのを、人にずっと記憶されてるってどんな気持ちやろ」
「まあ死後は怨霊になって、政敵は呪い殺すわ御所にピンポイント爆撃は喰らわすわ、男らしいところも見せたし、ええんちゃう?」
菅公の霊験で病魔防止に特効あり、とされる梅ヶ枝餅を食べながらするには罰当たりが過ぎるかと思うが、まあ大宰府とはそういう所だ。左遷のために作られたような場所で、庁舎と言っても菅公が流されたときも、建物は長く使用されていなかったため、井戸をさらえ、軒を修理してやっと雨露をしのげる程度のあばら屋で、日々の食事にも事欠く有様だったと伝えられている。
例え天拝山(てんぱいざん)」に身を清めて登り、自分の無罪と国家の安泰を天に祈ったとも言われる人格者菅公であっても、死後は怨霊と化す。それ程につらく厳しい場所なのだ。
実は大宰府と今住んでいる場所には、そのテのつながりがある。菅公から遡る事約200年、奈良時代の話だ。
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近隣の高畑町という所に、奈良時代の僧侶・玄昉(げんぼう)の頭部を葬った首塚と伝えられる「頭塔」というものがある。大規模なピラミッド型の七段土塔で、国の指定遺跡になっている。
頭の持ち主の玄昉とは、阿倍仲麻呂らと共に遣唐使として17年間入唐留学(るがく)し、帰国した後は興福寺に法相宗を伝え、聖武天皇に重用されて最高位にまで上り詰めた傑僧だ。東大寺建立の発意等も玄昉の進言によるところが大きいといわれ、護国仏教の確立に大きな影響を与えたとされる。
さて、揚がるものあれば下がるものもあるのが世の習い、この場合下がったのは藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)という男だ。
一頃は良かったが、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭すると、大宰少弐に左遷される。広嗣は左遷を不服とし、このところの天地の災異は反藤原勢力の要、右衛士督・吉備真備(きびのまきび)と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を、大宰府から朝廷に送る。
朝廷はこの言動を謀反とし、広嗣召喚(逮捕)の勅を出すが、広嗣はこれに従わず九州で挙兵。しかしこの乱はすぐに鎮圧され、広嗣は敗走の挙句、肥前国唐津で処刑された。
これで玄昉の栄耀栄華も安泰…と行かないのが、この世の物理・盛者必衰。広嗣処刑のわずか5年後の745年(天平17年)、朝廷内で藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、玄昉は筑紫観世音寺別当に左遷。翌746年(天平18年)、任地で没した。
さて、この「没した」状況が凄い。左遷から半年後の天平18年6月18日、大宰府観音寺に出向き、導師として供養を行っていた玄昉を怪異が襲う。
彼の玄昉の前に悪霊現じたり。赤き衣を着て冠したる者来て、
俄かに玄昉を攫み取りて空に昇りぬ。悪霊その身を散々に攫み破りて
落としければ、その弟子ども有りて、拾い集めて葬したりけり。
『今昔物語集』
忽然として空に登ること数丈、地に落ちて既に死せり。更に血と骨無し。
『東大寺要録』
玄昉導師の乗れる輿、入殿するや忽ち空中に捉えられ、提かみ騰げら
れて見えず。後日その頭、興福寺唐院に落ちる。けだしこれ広継の霊の
為なり。
『元享釈書』
天平十八年六月十八日(中略)栄寵日に盛して、稍く沙門の行いを乖けり。
時の人これを悪めり。是に至りて、徙所(観音寺)にして死ぬ。世に相伝へ
て云ふは『藤原広嗣が霊の為に害はれぬ』と。
『続日本紀』
哀れ玄昉、広嗣の怨霊によって五体を裂かれて命を落とす。おごれるものの久しからず…で有名な、『平家物語』にもこの話が載っている。時代が下がるのでかなり脚色も加わっているようだが。
同天平十九年六月十八日、しやれかうべに玄房といふ銘をかいて、
興福寺の庭に落し、虚空に、人ならば千人ばかりが声で、どッと
わらふ事ありけり。興福寺は、法相宗の寺たるによって也。
彼僧正の弟子共、是をとってつかをつき、其首をおさめて、頭墓と
名付て今にあり。是れ則ち広継が霊のいたすところなり。
という訳で、その首が祀られているのがこの頭塔、胴の落ちたところが同じく高畑町の胴塚、腕の落ちたところが肘塚町(かいのづか)、眉と目の落ちたところが豆山町(マユ→マメ)は崇徳寺の眉目塚と、フロム・大宰府の死骸がバラ撒かれた血なまぐさい名前の一帯となっており、我が家もその中にある。ただし文献に残る「落ちてきたもの」は首だけなので、肘や眉は後付けかと思う。
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尚、怨霊と化した藤原広嗣はその後鎮まることを知らず、その恨みの手を聖武天皇にまで伸ばす。
その後、悪霊静かなること無かりければ、天皇、極めて怖じさせ給いて
『吉備の大臣は広継が師なり。速やかに彼の墓に行きて、こしらえ
おこつるべきなり』と仰せければ、吉備、宣旨を承り、西に行きて、弘継が
墓にして、こしらえ陳じけるに、その霊して吉備、ほとほどしく鎮められる
べくなりけるを、吉備、陰陽の道極めたりける人にて、陰陽の術をもって
我が身を怖れなく固めて、懇ろにおこつりこしらえければ、其の霊止まり
にけり。
『今昔物語集』
広嗣が処刑された10年後(天平勝宝2年(750年)のことだ。10年祟って衰えを知らぬとは、さすがはメイド・イン・大宰府。怨念のパワーが違う。
ところでここに現れる「吉備の大臣」とは、広嗣に災異の元として玄昉と並んで名指しされた、右衛士督・吉備真備(きびのまきび)。玄昉とは一緒に唐に渡った遣唐使仲間で、大陸で陰陽道の修行を積んだこれも天才である。
ともあれ吉備真備の陰陽術によって、唐津の鏡神社に広嗣を祀る二ノ宮が創建され、怨霊は鎮められた。(尚この時、吉備真備は既に肥前国司に左遷された状態なので、唐津は近所。)
さて。調べて分かったのだが、この鏡神社の分社が、頭塔の東700mにあり、また頭塔から100mほど南東、奈良教育大学のキャンパス内には、吉備真備の墓と伝えられる「吉備塚」があるという。関係者全員がこの辺に集まっているのは、偶然ではないような気がする。
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…再び梅ヶ枝餅を食べながら考える。昔日の記憶と味に変わりは無いけれど、福岡という街の様子は、私がいた頃からすっかり様変わりしてしまい、正直もはや「帰る」より「行く」と言う方が相応しい有様だ。
こうした食べ物に代表される故郷の文化に、懐かしさと離れがたさは感じるものの、脳裏の風景は既にどこにも無いことを、知れば知るだけ寂寞とした思いに囚われる。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
室生犀星の詩が口を突いて出た。そして脳内に変なスパークが起きた。
一人失った美しい故郷の姿を胸に抱いて、もはやそこへは帰らじと決する。これは菅原道真公を詠っているではないのか?
そして詩の続きを思い返して慄然とした。
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
既にふるさと足り得ない、変わってしまった都へ、帰るところではないと決めたはずの場所へ「かへら」うとする。これは自分から奪われ、汚された故郷と、そこを変えてしまった全ての者を倒して清浄を取り戻そうとする、菅公の清い請願ではないか?
怨霊と化したのでそれを鎮める為に天神として祀ったとは、いわば正史的表現で、権力者の都合がどこかにあって不思議は無い。しかし、もしも京都へ舞い戻った菅公が、気高く神々しい姿であったら?そういえば菅公が雷を落としたのは、平安京内裏の「清涼」殿だったな…そこに何かのメッセージが込められてはいないか?
これが故郷を外から見るということか…などとごちつつ、真夏の夜は更けてゆく。この熱帯のごとき夜気を掃えるならば、凶風涼風の如何は問わぬ。
いずれ菅公、夜行の折はこれなる餅をば持参し、御供つかまつりまする。なに、これも地縁にござりますれば。